お便り

書簡(高橋正登様)

西川祐子 先生

この二年ほどの間、幾度となくディスカッションを重ねるなかで、心の奥にもやのように漂っていたものが、少しずつ晴れていく感覚をたびたび覚えました。その豊かな時間を共にさせていただいたことに、改めて深く感謝申し上げます。

「上手い踊りではなく、善い踊りを踊りなさい」――先生が、先代扇藏師匠から度々いただいたお言葉と伺いました。この言葉が、いつまでも胸の奥に響いています。

人は置かれた状況によって、良い方にも悪い方にも転がるもの。けれど、己を捨て、自然体で事に臨めば、自然と“善い動き”が生まれる。

神さまが、そう導いてくださるのだ――そんなふうに思い至ったとき、すとんと腹に落ちるものがありました。

近ごろ、思いもよらず植物が身近な友人のように感じられることがあります。彼らは、何が起きても虚心坦懐。ただ黙って、いまという瞬間を生きている。

かつての日本人(いや、世界中の人々がそうであったのかもしれません)は、自然を畏れ、愛し、己を自然の一部と感じながら生きていました。けれど現代に生きる私たちは、いつしかその感覚を遠くに置き去りにしてしまったように思います。

実業の世界にいると、自らの信じる価値観を貫くべきか、あるいは周囲の論理に歩調を合わせるべきか――その選択を迫られることが、しばしばあります。渦中では迷い、揺らぎもする。けれど、最終的に「これは正しい」と信じる方を選んだとき、不思議と物事が良き方へ流れていく。そして後から振り返れば、やはりあのときの選択が正しかったのだと、驚くほど明快に感じられるのです。

ならば、いついかなるときも、自然体で、虚心坦懐に――「善い踊り」を踊るように、決断を重ねてゆけばよいのだと。先代扇藏師匠、そして祐子先生に、そう教えられた気がしています。

自然を畏れ、己を小さきものとして受けとめるという昔ながらの世界観は、長く続いてきた伝統、風習、生活習慣の中に、静かに息づいていたのだと思います。しかし、この百五十年のあいだに、その感覚は少しずつ損なわれてしまいました。けれど、伝統を再び見つめ直すことで、私たちはその感覚を取り戻すことができる。そして、伝統芸能がその一翼を担うのだと信じています。

『遊の会』を、忘れかけた感性を呼び覚ます場として育ててゆけたら――そう願っております。

高橋正登(upnext代表)

コメント

    • 西川祐子
    • 2025.12.08 12:33pm

    高橋正登 様

     伝統芸能が現代に存在する意義を形にすべく「遊の会」を立ち上げおよそ二年になりますが、この会に新たな発想と思いがけない分野との繋がりをもたらして頂き有難うございます。そして伝統として生き残った美しいものを、美しいと感じる感性の中に、生きづらい現代社会の仕組みを矯正する力を見出して頂き大変心強く思っております。

     これまでのディスカッションでは歴史やら死生観など哲学的な話題も多出し、また伊藤亜紗編「利他とは何か」などの書籍を多数紹介され、身体表現者の私にとっては刺激的な思考鍛錬となりました。企業のオーナー経営者としてご活躍中のお一人ですが、会社の社会における存在意義や個々の人間にとってのより良い働き方について常に考えておられることが十分に分かりました。また大きな判断を下さねばならぬ時、己を捨てた己、すなわち周りに流されず自然体で虚心坦懐な己、に任せるというのも大いに共感いたします。

     父、扇藏の教え「善い踊り」に触れて頂きました。うけよう上手く踊ろうという我欲を捨て、先達の型を自身のものにして初めて善い踊りができる資格に達すると考えております。国際的に競争の先鋭化したIT業界においてキャリアをスタートさせた高橋様が、単なる資本の論理や経済原理のほかに、助け合いや利他の精神を基盤に据え「善い事業」を目指し起業されたことは、私にとって形こそ違え学びの多い好例です。踊りの団体の場合は、積もる習わしがあるが故に昔ながらのお師匠さんと弟子・好事家による内輪の虚業に陥りかねません。そうならぬよう、その運営は実業界における合理性に基づいた経営に倣うべきでしょう。高橋様の手腕に期待しております。

    読み応えのある本を紹介していただいたお返しに、谷川俊太郎の詩をここに引きます。「生きる」という作品に、“すべての美しいものに出会うということ そして かくされた悪を注意深くこばむこと …”とあります。清濁混在する世をより善く生きる一つの道。美しいものを美しいと感じる心を養い、美しいものとの出会いの機会を増やすうえで、遊の会が幾分でもお役に立てるよう尽力してまいります。今後とも共に企画立案とその執行に携わって頂ければ幸いですし、この会への参画によって高橋様の社会活動がより豊かなものとなるよう念願しております。

    西川祐子

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