西川 祐子先生
季節は、真ん中より変わり目が良い。風に吹かれて澄んだ夜空に心が躍り、春の訪れをほんのりと感じます。「清姫コンフィデンシャル」の動画収録を担当させて頂いて、早一年。励みとなる貴重な機会を頂き、改めてご関係の皆様にも感謝をお伝え申し上げます。
今、私の中には、舞台上で直に目にした記憶と編集で繰り返し再生した記録が、混在しています。西川様と松岡大様、日本舞踊と舞踏の表現の垣根を超えた交錯の先に、強い光が差し込んできたことを、体感として覚えております。お堂という空間で、和洋の音楽の調べを背景に、光が降りてきた瞬間が蘇って来るのです。下見を含めて、映像収録には正確性と客観性が求められますので、光が見えた気がしてしまった撮影者としての自身はお恥ずかしくもあります。しかしながら、正直、心の底にぬるりと蠢いた何かの感触が残っているのです。光は、熱となって身体にゆっくりと定着していきます。
話は飛びまして、美大予備校時代の恩師が、授業である公演の動画をみせてくれました。そこには、北海道の河川を舞台に踊る故・大野一雄氏の姿が収められており、十代の私にとって初めての身体芸術との出会いとなりました。当時恩師による解説を理解できたとは到底思いませんが、河辺の光と影の中で身体が浮遊していく様が脳裏に刻まれております。アーカイブを通して身体表現を知る。当然ではありますが、直に目にすること、資料から読み取れるもの、映像から感じ取れるもの、それぞれに利点と欠点があります。本来、知るということは、人から人へ伝えられ、体で得るべきものでもあります。その上で知の身体性とでもいいましょうか。伝統の上に積み重ねながら、高く遠くに視線を向けられているお二人の姿に、私は閃光をみたのかもしれません。
パフォーマンスは、収録より生が良い? 映像は光の記録ではありますが、どこまでいっても実態がなく、物質感がない。はかないデータなのです。だから、無い物ねだりする子供のようにそこに在る身体表現を手に入れようとするのかもしれません。身体と映像の関わりには、まだまだ余白が残されているように感じるのです。その辺りに、新たな一歩を踏み込まれる機会を願いまして、文章を閉じさせて頂きます。
鷺山 啓輔(映像作家・帝京平成大学メディア文化コース専任講師)
鷺山啓輔 様
昨年の“清姫コンフィデンシャル”では、当日会場に来られなかった方々のために、上質な配信映像を制作下さり有難うございました。お陰様で、配信を鑑賞した方達からは大変好評をいただきました。そこに、演出家の意図や、演者・演奏家の表現が生き生きと投影されていた賜物であると感じております。
さて公演当日は、ご自分の目で舞台を「鑑賞」しつつ撮影するという、主観と客観の入り混じった体感を得られた由。何らかの事象に対し自分の感情が反応するのは人の常。お便りにある様に、プロの映像制作者にとってはそれを感知しながら、撮影には正確性・客観性を維持するよう努めるのが肝要なのでしょう。そのプロに対して、当日の私どもの表現力が到達し浸透したものと嬉しく読ませていただきました。もっとも、舞踊家にも主観・客観に関わる課題があります。かの世阿弥の時代には映像を記録する手段がありませんから、この偉大な先人は「離見の見」という戒めを残しました。現代に生きる私たちは幸せです。アーカイブとして残っている限り、先人の踊る姿を客観的に見て学ぶことができるからです。そして、自分の「初心」の姿も。
映像はそれを光のデータとしてみた場合、確かにはかなく無機的なものでありましょう。でも観る人の感性がひとたび呼び覚まされたら、客体としては生身の人のパフォーマンスと何ら変わらなくなるように思います。勿論、映像制作者の「場の設定―撮影―編集」の技量如何によりますが… お便りからはこの制作の工程が、記録と創作の狭間にあって微妙なものと感じ取れます。私はパフォーマーとして、この工程以前の役割を受け持つことになります。
共演者と共に舞台を作り上げ、それに観客をいかにして取り込むか?生身の身体ゆえに故障もあり失敗もあり、また決まった日時に観客が足を運んでくれなければ成り立たないライブパーフォーマンスに、これまで情熱を傾けてまいりました。お手紙を受け、なぜライブなのかと考えてみました。芸能・芸術の原点は、洋の東西を問わず信仰と深く結びついています。自分の才能や努力をひけらかすのではなく、エゴが消えるまで自分の精神や身体を昇華させ、ライブ当日を迎える。心意気は信仰のようなものなのかもしれませんね。好きだからこそ続けられる稽古とライブの繰り返し。舞台に立つ側の感覚です。さて、それを見届けて下さるお客様にとってのライブの意味は? 鷺山様にも次回は観客としてライブをご覧いただき、感想を伺いたい気持ちがしております。
今年は桜が遅いですね!
西川祐子