お便り

書簡(樋川ゆき様)

西川祐子先生

花道のある劇場から飛び出す……祐子先生の“いつもと違う”が出会いでした。

初めて祐子先生の踊りを拝見したのは、宣伝美術を担当した南青山マンダラ・実験パフォーマンスVol.7『踊るバッハとケージ』(2017)です。日本舞踊の観賞は、数えるばかり。それがいつだったのか思い出すのも難しいほぼ初心者で、一般的な知識も怪しい。ただ前衛的な現代音楽と伝統芸能がどう絡むのか、非常に興味がありました。玉塚充さんの企画・演出も功を奏していましたが、舞踊の表現自体が印象的でした。

表情をつくらない。(今まで気づかなかった?)なのに情が伝わる。(言葉以上に)様子が感じ取れる。(妄想癖故か……)感覚の同調はとても新鮮でした。その後、『祐子の会』で本来の舞台に触れ、表情や表面的な振る舞いがなく身体の動きだけで魅了する舞台芸術・日本舞踊が放つ不思議な波動に惹かれていきました。

礼節や謙譲、感謝といった美徳と研鑽のうえに披露される祐子先生の舞台は、静なる強者。刺激や混乱を糧に膨らむ私のイマジネーションとは相反するものですが、拝見する度に異なるリキュールが溶け込んだ感性のカクテルをたのしんでいます。

祐子先生は、専門分野を究めながら、他ジャンルの表現者と舞台を創り、踏んでいらっしゃいます。これまでコラボレートした方から受けた新鮮な刺激、カルチャーチョックのようなものはありますか。どのようなことかは気になるところです。

祐子先生と私、随分と離れたところにいるように思えますが、もしかすると案外近い位置で背中合わせにいて、時々向き合っているのかもしれません。昨年3月の『清姫コンフィデンシャル』でもご一緒しました。また祐子先生の“いつもと違う”でお会いしましょう。それまでに、私の猫背気味な姿勢が少しよくなっているといいですが。

樋川ゆき(アートディレクター、美術家)

コメント

    • 西川祐子
    • 2024.02.26 1:14pm

    樋川ゆき 様

    “素敵!”、「踊るバッハとケージ」で初めてご一緒させていただいた折に、樋川様の手になるチラシを目にして思わず口にした言葉です。あくまで情報は控え目に、重すぎない格調を保って描かれておりました。日本舞踊関係では見たことのないデザインでした。テーマ自体が、音楽の基底ともいえるバッハと音楽の常識を超えようとしたケージの組み合わせなので、その表象を生み出す才能と努力はいかばかりのものかと、大いに感嘆しました。
    どんな人だろうと、俄然興味が湧いて来ました。後に手掛けられた作品群の一部を資料として拝見する機会に恵まれましたが、どの作品も、対象となった「もの・こと」の´ここぞ´という場面を切り取っています。しかもそれが切り口という静止画でなく、「もの・こと」の全体像を想起させます。チラシであれば、演目の主題と観る人の感性とを結ぶ導線の入り口の様にも観えます。
    ご質問にありました〝他の分野の方との交流″については、色々な分野の方々からも頂戴しており、表現者にとってそれだけ重要な事であると私自身も感じています。そして交流の度に、大いに刺激を受けています。先のセッションの例では、一つのテーマが異なる手法(片や美術、此方は舞踊)で表現されました。当然のことながら私には美術の技法やその巧拙は分かりません。が、描かれたものがテーマをどれほど深く、また明確に描いているかは感じ取れます。これは私の想像ですが、今この時代を生きる人々に向けてメッセージを発信するのに、頼るのは自分の感性と筆一本という自立の力強さがあるからではないでしょうか。この点に最も刺激を受けた次第です。
    古典の世界に長く居ますと、古典の持つ生命力の強さに頼り表面をさする様に作品を模倣して満足しがちです。観る人の心に訴えかけ、何らかの感動や満足を感じてもらう努力や工夫を忘れがちになります。現代社会に必要とされる日本舞踊とはどうあるべきか? 伝統芸能としてのみで存続している姿は、正直見たくありません。二次元の限られた領域に、どういう風に情報を載せたら人の感性を揺り動かし想像力を呼び覚ませるのか? 目指すところが似ているので、お互い非常に近いところに居るのでしょう。常に現代社会と切り結んでいる樋川様を拝見するに、そうありたいと思う一方、古典の方向に向いている時の私は、おっしゃるように´時間軸上で´背中合わせなのかもしれません。きっとまた、ご一緒できる機会はありますね!

    西川祐子

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