お便り

書簡(鵜池治希様)

西川祐子様

 初めてお手紙を書かせていただきます。英国・ロンドンに10年以上在住し、メディアで勤務している鵜池治希と申します。恥ずかしながら、私には日本舞踊と舞踏の知識も鑑賞経験もほとんどありません。それでも長い間日本を離れ、ある意味“ガイコクジン化”した私が筆をとったのは、西川先生と松岡様の表現が海を越えて私の胸を強く打ったからです。

 哀しくも艶めかしいスキャンダル。

 『鐘の岬』の筋書きを読むと、そんな言葉が思い浮かびました。僧侶と清姫との間に何があったのか知りたい、そんな思いで私は『清姫コンフィデンシャル』をロンドンからオンラインで視聴しました。

 ロンドンではロイヤル・バレエ版や、現代的にアレンジしたマシュー・ボーンの『白鳥の湖』を鑑賞する機会がありました。ご存じのように、この作品は呪いで白鳥の姿に変えられた王女と王子の悲恋を描いた物語です。英語が母国語ではない私にとって、セリフがないバレエは、言葉の壁がない自由な表現です。セリフがないと解釈の決まりもないのです。私には『清姫コンフィデンシャル』に『白鳥の湖』が重なります。

 ただ、両作品には違いもあります。『白鳥の湖』では、王女と王子は天国で結ばれますが、清姫の思いを僧侶は受け入れませんでした。愛情、憎悪、嫉妬、悲哀、相反する感情が、『鐘の岬』には溢れています。蛇は白鳥とは異なり、牙を持ち、粘着質で、恐ろしい。また、『白鳥の湖』では、可憐さや悲劇性が優美かつ躍動感を持った手足の動きで表現されます。一方、西川先生はたった一本の扇子と所作で蛇、いや、この世のものではない何か、に変身したのです。セリフと身体表現はそぎ落とされ、西川先生の煌びやかな着物から、妖しい情念が滲み出てくるようでした。

 『清姫』は、物語では描かれていない僧侶と清姫の心象風景でしょうか。西川先生と松岡様は向き合いながらも、決して目線を合わせず、異なる身体表現で互いに訴えかけます。必死に思いのたけを伝えようとするのに分かりあえない二つの魂は、とてももどかしく、とても哀しい。結ばれることもない、だが決して離れることもできない僧侶と清姫は、あの世とこの世の間を永遠にさまよい続ける、そう私の想像を掻き立てました。

 『白鳥の湖』同様、私は『清姫コンフィデンシャル』にセリフがないからこそ、国境や文化、時代を超える、コンテンポラリーで自由な可能性を感じました。西川先生と松岡様が、その可能性を今後どう広げてくださるのか、楽しみにしております。

月の綺麗な夜に 

                       鵜池治希(ロンドン在住メディア勤務)

コメント

    • 西川祐子
    • 2023.07.10 3:17pm

    鵜池治希様

    初めまして。お便り有難うございます。このところ、SNSの力にびっくりすることが続いておりますが、オンラインで「清姫コンフィデンシャル」をご覧くださったのですね。重ねて感謝申し上げます。
     お便りを拝読し、鵜池様は豊富な知識と芸術体験をお持ちの方と拝察申し上げます。ご指摘の通り、身体表現の持つ言語圏を超えた“共感を生む力”の可能性に期待し、精進を続けている次第です。同一言語内で言葉は伝達手段として大きな働きをしますが、異言語の方々には却って壁となってしまう事も…。能楽狂言方・山本東次郎先生は、数多くの海外公演やインバウンド向け公演の経験から、日本語を日常的に使わない人たちに、狂言の神髄を理解していただくのは大変難しいとお話しして下さいました。
    日本で生まれた芸能は、言霊という言葉があるように、日本語がその作品の土台に必ず存在する筈です。作品を作り上げる過程で、概念を“言葉”で定義して考えているからと学びました。従って言葉の持つ背景までも知っていると、殊に古典に根差した作品はより深く楽しめると思うのですが、背景を知る手掛かりとなる古典に触れる機会は、残念ながら減っています。
    これは例として的確かどうかは分かりませんが、私が学生の頃母と母の友人との雑談の中で不正乗車の話題となりました。母の友人が「ああ、薩摩守ね」と。私は「?」。後年能楽に興味を持ち「忠度」注)を知り、「なるほど」となりました。このような言葉遊びも、古典を知っている世代には通用しますが、果たして今は…。
    気がつけば、生成AIが過去の膨大な言語データの中から抽出し編纂して相応の会話や物語を生み出せる時代に至り、言葉を主な表現手段とする芸能においては、芸能活動における創造性が問われる事態が訪れるように思われます。一方身体表現の分野でも、基本的な振り付けの編集がやがてAIによってなされるかもしれません。しかしながら、仮にAI振り付けの通り踊り手として踊った時、果たして納得がいくか否か? 自らの頭と身体から作品を絞り出す、生身の呻吟の過程が観る者に伝わって、それが舞踊家の存在意義となるのではないでしょうか。 伝えることをお仕事となさっておいでの鵜池様は、どのようにお考えになりますか?

    梅雨の日本より
    西川祐子

    注)平家の一門、平忠度(たいらのただのり)が薩摩守(さつまのかみ)に任じられていたことからのもじり

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