おだやかなお日和が続いております。ますますご清祥のことと存じます。
この度は、『清姫コンフィデンシャル』にてご共演頂きまして、ありがとうございました。私自身にとっても大変貴重な時間であったことは申し上げるまでもありませんが、日本舞踊と舞踏のコラボレーションということにおいても、最近ではあまり見られない機会であったかと思います。初めて稽古場にお伺いした際には、空間の持つ静謐さ、無駄の無さに身を引き締めると同時に、それでいてあらゆるものを受け入れるような、豊かな精気に満ち溢れていることに驚いたものです。実は私が舞踏に興味を持ったのも、人は空間をどう創るか、という主題が一つありましたので、稽古場に踏み入れた瞬間に、身体が身体そのものを魅せることよりも、普段には見えない「その周り」を浮き上がらせる、という創造性を日本人が着実に積み上げてきたことを再確認することができました。その作業のための余白をきちんと確保している、そんな空間の持つ寛容さを西川流のお稽古場の内に発見することができました。そして西川様が、眼差しを一つ動かすだけで幾多もの物語を生み出す踊りの、その生成の瞬間に立ち会えたことは、同時代のなかで同じく身体芸術を追求するものとして、この上ない学びとなりました。私もよく「踊っている時には何を考えているのですか?」と聞かれることがありますが、何も考えずにいくつもの「型」の中に身を委ねると、不思議と周囲の物事に反応しながら「魂」が寄り添ってくるものです。特に西川様の場合は、その「型」が何百年も引き継がれてきたものですので、まさしく時空を越えて、今は亡き他者と繋がっている幽玄の存在として映るのだと思います。自分の意思を超えたものに「動かされる」西川様の周囲の空間が、過去と現在と未来を内包するかのように見えました。そのような踊りのあり方は、舞踏の目指すところと共通するような気がいたします。
今回は「道成寺」をテーマにした作品というところで、西川様の演じた清姫に対して、安珍という大役を仰せつかりました。身に余る役でしたが、好き勝手に表現させていただけたことに感謝いたします。ご覧になったお客様より、「安珍と清姫が入れ替わったようにも見えました」との感想を頂きました。台詞を伴わない身体芸術だからこそできる、自他のイマジネーションを膨らまし、解釈を広げていく作業は本当に楽しいものです。またご一緒させていただける機会を楽しみにしております。どうぞこれからも宜しくお願い致します。
松岡大(山海塾 舞踏手)
松岡 大 様
「清姫コンフィデンシャル」では大変お世話になりました。その後いかがお過ごしでしょうか?
私は、改築のため今秋閉館となる国立劇場での流派の会が4月23日にあったため、引き続いて慌ただしい日々を送っておりました。「清姫」の公演の後、お忙しい中お便りを早々に頂いておきながら返事が遅れ、大変失礼いたしました。
日本舞踊愛好者は、近年踊手もご覧くださる方々も高年齢化しつつあり、存続の危機を感じておりましたが、コロナ禍で愛好者の足が一層遠のいてしまいました。長らくこの芸能を支えてきた諸流派の中にも、これからの在りようの模索に苦しんでいる姿が垣間見られます。いったい日本舞踊はどうなってしまうのかという不安が心から離れない中、自分に出来ることは、先ずは自分の舞踊の進化のために精進することと決め過ごしてまいりました。
そんな中、松岡様との稽古が始まったのですが、作る苦しみとそれを上回る喜び、久しぶりに自分の心と身体がウキウキし、本当に楽しい稽古を収めての公演となりました。松岡様の表現は、安珍という役の感情を十二分にこちらに伝えて下さりながらも、生々しさを感じさせないのです。いつまでも見つめ合っていられるような… 「これが舞踏か」師の言葉がパッと頭に思い浮かびました。往年の舞踏家・土方巽の舞台を観た時のこと、「舞台の上手から下手に移動するだけなんだけれど、目が離せないのよ」と。これは大変、こちらも今の自分のありったけを絞り出し役を作り表現しないと、してやられる…。私は日本舞踊としての表現とか日本舞踊らしさを一先ず忘れ、ともかく必死に作り踊ったのですが、頂いたお便りから、そんな私の踊りの中に日本舞踊の有り様を観て下さったとわかりホッとしております。
若かりし頃稽古中に、何も考えずにただ振りを連ねて動いていた私に師が、「どうして前に出来たことを捨てられないの。捨てても出来ることが身についたことよ」と仰いました。今この言葉の意味が深く理解できたように思います。
目新しさを狙ったコラボレーションではなく、自らのジャンルをより深く知り、妥協することなく共に作品創りが出来る交流は、観客も交え、芸術・芸能を未来へ繋ぐ大切な場となって行くように感じています。
またご一緒できることを心より願い、してやられないように(笑)、なお一層精進いたします。
西川祐子