お便り

書簡(水原紫苑様)

西川祐子 先生

 ご無沙汰しております。
 ちょうど梅の咲く頃ですが、祐子先生のお舞台にはいつも白梅のような、清冽な気が流れていらして、拝見すると、ぴしりと打たれるような思いがいたします。
 これは知識がないための偏見かも知れませが、一般に、遊里とも関わりの深い歌舞伎舞踊には、色っぽさや媚態のようなものを感じることが多々ございます。
 けれど祐子先生の踊りには、 むしろ能や狂言に近いような、凛と背筋の伸びた精神や知性を感じるのです。
 たとえば娘道成寺のような知られた踊りでも、先生が踊られると、白粉くささが少しもなくて、恋に恋する少女の純粋な心が新鮮に立ち上がって参ります。
 烏滸がましいのですが、そこに新世紀の日本舞踊の可能性があるように存じます。
女が社会の制約のうちに、他者に縛られて生きるのではなく、自分自身の心身を自由に解放できるような、表現世界としての日本舞踊、 そんなことを夢見ます。
 それは私の関わる現代短歌にも通じるのです。決して人に媚びることなく、屹立する歌を目指したいと思っております。

つたない言葉を連ねて失礼申し上げました。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

水原紫苑(歌人)

コメント

    • 西川祐子
    • 2023.03.01 11:35am

    水原 紫苑 先生

     お便り有難うございました。
     三月末に古典の名作「娘道成寺」をテーマにした舞台があり、振付・稽古と忙しさのあまり、梅の季節に頂いたお便りの返信が桃の季節となってしまいました。
     日本舞踊の家に生まれ、小さなころから女の踊り、男の踊りと交互に習い、一年に一度流派の勉強のためのお浚い会で舞台にかけることを、大人になるまで続けてまいりました。踊りを勉強させてもらえる環境を有難く利用し、20代後半からは父の得意とした男踊りの大作、関の扉・吉野山・舌出し三番叟等を舞台にかけました。振り返ってみると、変身の面白さと共に歌舞伎舞踊の骨格を、少しばかりは理解できたように思います。そののち、娘道成寺を踊ったわけですが、能楽や文楽などに造詣の深い先生方にご覧いただき、今思うと冷や汗ものだったと反省しきりです。
     娘道成寺を踊る少し前に、私の二人の師匠、父と花柳茂香先生から、その後の私の舞踊活動の基盤となる言葉を得ました。父は雑談の中で、「我々は(歌舞伎)役者ではないのだから、特に男性舞踊家は、70歳80歳になっても白塗りをして舞台に立ったらおかしい。素踊りを踊れないとね…と。茂香先生からは稽古中に、「自分の人生を乗せて踊りなさい」と。
     お便りに頂いたお言葉、「表現世界としての日本舞踊」…。古典舞踊を滑らかに踊りきることに留まらず、先人が大切にし、実は現代の日本人も共有できる心情や身体技法を作品から汲み取り、現代に提示出来たら、また新たに現代の日本舞踊作品を作れたら、伝承する家に生まれた一員としての役目が果たせるかしらと考えます。またその視点無くして古典作品の存続は難しいとも感じます。
     先生とは、細くしかしながら強くしなやかで長い糸で繋がれているように思い、感謝しております。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

    西川祐子

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