お便り

書簡(森龍朗様)

森 龍朗 先生、

先生の佇まいに日本舞踊の素踊りに通じる優美さを感じ、バレエがご専門と存じながら稽古していただきたいとお願いし、10年ほどになります。通い始めたころ、コツコツと繰り返すバレエレッスンを通し、帯や足袋に助けられ意識的に身体を使わなくても踊れていたことに気づきました。

 「舞踊は日常生活の洗練です」と常に仰り、自己の身体を見る眼を養う稽古の数々。私とバー越しに向き合い説明を交え手本を見せて下さる先生についてゆけず、何度「先生できません」と言ったことか…

 日本舞踊の日本をひとまず置いておき、舞踊ということに焦点を当てますと、先生の稽古から、出来ていないながらも沢山のことを学ばせて頂いております。

 先生は以前、文化庁芸術祭の舞踊部門の審査委員長をなさっておいででしたが、ご専門のバレエ以外の芸術・芸能にも精通しておいでと推察申し上げます。知見の広い先生の目に、日本舞踊はどのように映っているのでしょうか?

コメント

    • 森 龍朗
    • 2021.11.15 1:05pm

    祐子先生

     祐子先生から身体の使い方について知りたいとのお話があり、そのお手伝いはしますが先生の舞姿にバレエ的な技法の悪影響が見え始めたら、即、やめましょう、との約束で先生は松が丘の稽古場に通われ、三日は過ぎ、四日目が過ぎたばかりかと思っていました。が、十年も経っていたとは驚きです。

    傍から見ると、十年もバレエの稽古をしていたのですから、祐子先生の足はバレエ的に外に開き、脚は高くに上がり、跳んで回って滑って打って、およそバレエの技法は一通り出来ると思われるでしょうが、そうした稽古はしなかったので、幸か不幸か、先生はバレリーナに成り損ねました。西川祐子氏は変わらず元の日本舞踊家のまま凛としておられます。

    この十年もの長い間、祐子先生と私は二人して舞踊の何を学んで来たのか、たしかに総括するべき時期であります。

    思い出してみれば、それは四足で床と空間を歩く、左右の足に重心を掛け分ける、一本足で立って上半身を使う、自分と自分の身体の部位を見つめる、身体の中に空気を通わす、そしてその先に日本舞踊の持つ古典性への再認識と回帰を願い、手振り・身振りの仕草の中に隠れている技法を見つけ出し、それが今の社会で生きている感覚に適った日本舞踊の道につながればと・・・・・欲張りにも劇場舞踊が要求する身体的原点の模索に苦労して来たのかも知れません。

     祐子先生は問題点を自分の中に持ち続けられる方で、その時は解決しなくても、後日、時の加勢も得てその秘密を掴み取ってしまう不思議な踊力が発揮されます。それは大変重要な力であり、嬉しいことです。

     先生の日本舞踊についてのお尋ねには困惑するばかりですが、強いて答えの一端を申し上げるならば、言葉を伴わないバレエに比べ歌詞を伴う日本舞踊の動きには、その表現が歌詞に依存し過ぎ、からだ自体の自発的な独立した表現が不十分かと見受けられる傾向があります。それは着物の持つ条件や見所の狭さ等にも因ると思いますが、二本の脚に重心を移し替えながら移動する“踊り”よりも、上半身と腕手を多用して意味や状況を想起させる“舞い”の要素の方が表立っているからでしょうか。

    上半身での舞いの表現は足腰が土台になり、“舞い”は“踊り”に支えられ、つまり、舞踊の文字は“舞”の字が次に来る“踊”の字に支えられているからには、そのままに拝見して楽しみたいと思っています。

    このように、日本舞踊は素人の私の眼に映っているのですが、やはり落第でしょうネ。

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