『“原野”と素踊りの世界』
今では誰もが当たり前のように使っている「舞踊」という言葉は、近代になってからの造語だそうです。江戸時代に歌舞伎の劇場でさかんに踊られていた舞踊は、もっぱら所作事と呼ばれていました。所作事は、舞(まい)と踊(おどり)と振(ふり)の3つの要素で構成されていると言われます。振は身振りであり、所作事の所作に通じるものと思いますが、舞や踊が抽象的な表現であるのに対して、具体的な事物や動作を意味している表現であると思います。近代以降、抽象的な表現にも世界を広げていった日本舞踊は、確かに所作事とは呼びにくいものに育っていきました。
クラシックバレエにもマイムという表現方法がありますね。一定の決まりごとのジェスチャーで、登場人物が会話を交わすものです。私はマイムの古風な味わいが好きなのですが、現代においてはやや古臭い表現方法と思われているようで、再振付される際には踊りに変えられていることが多いようです。
「原野」の舞台を拝見していて気になるのが、あの扇を何枚も連ねた小道具です。何かを暗示しているに違いないと思いつつ、その何かは観る人によってさまざまに見えるようにも思えます。まとわりついてくるものを振り払うような所作が見られますが、この所作はけっして具体的な表現ではありません。目には見えない何かを振り払ったようですが、何を振り払ったのかは、観る者の意識に委ねられているようです。「原野」という題名も、何らかの心象風景を象徴しているものに違いありません。
鑑賞者にとっては、これはとても不親切な表現に思えるのですが、実は東洋的な芸術表現では一般的な手法です。表現を惜しむことによって、反対に鑑賞者は想像力をかきたてられます。表現されていないところを心の中で思い描くことによって成立する美や情趣や情感というものでしょう。空白を残し、色彩を用いない絵画や、短歌や俳句などの短詩型文学などと共通する表現ですし、芸能では能の簡素な舞台が思い起こされます。
世阿弥が「秘すれば花なり」という能には、さらに表現を秘した袴能という上演方式があります。日本舞踊の素踊りに当たるものでしょう。素踊りもまた具体的な役の姿は見せません。観る者は心の中で見えないところを自由に思い描きます。不親切ではありますが、表現する世界は無限であり、豊穣です。また、近代的な抽象的表現のようでいて、実は伝統的な芸術表現の文脈に連なる表現でもあると言うことができるのではないかと思うのです。
中川俊宏 (武蔵野音楽大学教授)
中川俊宏 先生
お便り有難うございました。
先生から頂いたお便りを拝読し、素踊りについて考えている内に、ふと安土桃山時代の絵師、長谷川等伯の二つの作品が思い浮かびました。精緻に描かれた絢爛たる金壁画「楓図」と、描かない余白が空気や湿気を感じさせる「松林図屏風」。ともに国宝で等伯の代表作ですが、正反対とも思える表現が一人の絵師によって成されている・・・。日本舞踊家にとっての絢爛な歌舞伎舞踊での表現と、飾りを削ぎ落し心情表現を見どころとした素踊り。
若いころ、現代の素踊り作品といえる師の代表作「原野」を踊れる様になりたいと、お伝えした私への師の答えは、「まずは流派の古典の大きな作品を勉強しなさい。(踊る心・舞踊身体技術・作品理解等、表現者として必要な要素がまだ)何もないのに削れば何が残るの?」でした。古典作品を素踊りで踊り、振付をするようになった今、師の言葉が腑に落ちています。舞踊家として己を見つめながら、作品への深い理解と豊かな思いが持てたとき、作品の主題をよりはっきりさせるための削ぐ作業ができるようになるのだと・・・。時間のかかることです。
中川先生が書いて下さったように、素踊りの可能性は有る、と私も感じております。より良い素踊りを踊れる様に、より良い作品を創れるように生涯勉強を続けて行こうと思います。
西川 祐子